佐藤正平さん 平成25年7月15日三浦市民病院にて永眠 85歳
平成13年3月逗子葉山ライオンズクラブ入会
佐藤Lと私の関係についてメンバーに話をした記憶はありませんが、二子山ハイキングや幸保園との事業で、どこからともなく景品類を集めていただいたことや東日本大震災の復興支援に先頭になって募金支援をされた彼の想い出が強いのではないでしょうか。
また、生前、自慢話や仕事のことなどあまり話す性格ではなかったようですので想い出を書きます。
葉山の最初の高級住宅街として、葉山小学校裏手に開発された東伏見住宅(隣接地として東伏見宮別邸現在のあけの星幼稚園)の初代自治会長を務めていたこと。元建設庁官僚で全国の道路行政関係にかなりの人脈を持っていたこと。西湘バイバス建設や台風による崩壊復興に尽力したことなど、長いお付き合いと私の人脈から自然と知るようになりました。逆に佐藤Lは私の職業柄自身のことを充分知っていると思い込んでいたようです。
さて、お付き合いやライオンズ入会に至る発端は、私の45年以上に至る子供たちの剣道指導の中で、今から20年くらい前になりますが、佐藤Lの2人のお孫さんに約10年間程度教えたことがありこの間に保護者会の剣道会役員や会長職を佐藤Lの嫁にあたるお母様にしていただきました。佐藤Lには、週2回の稽古の送り迎えの際、お話しする機会もあり父と同郷の宮城県人であることから親近感を覚えました。
再婚後、同居していた二男夫婦と送り迎えの孫を逗子に独立家庭を築かせ、しばらくは二人だけの新婚生活を送っていましたが、癌によって死別、短い再婚生活から意気消沈している姿をみてクラブ入会を勧めたことが入会までの経過です。
さて、クラブ入会後の佐藤Lは葉山町町制功労者表彰を受けています。事の始まりは、建設省OB仲間とアフリカ某国の子供たちに靴を贈ろうとしたことがあります。すでに買い揃えた運動靴(佐藤Lスポンサー笠原俊一分約200足)が某国の戦争勃発で送ることができなくなり、この処分の相談がありました。さっそく町教育委員会と相談し小学校では大歓迎と話がまとまり寄贈となりました。
その後、町内子供たちの支援活動を始め、葉山保育園とにこにこ保育園の二園の要望に応えリコーダー(音楽教材)と子供用絵本の寄贈を行い、私も同席した感謝の会も行われました。
私の知らない間に、二園との付き合いも急速に進み・大型プール・冷水器の寄贈も園長から知らされる昨今でした。
昨年末ごろから東京オリンピック開催要望が国内にささやかれる中、かつて、東京五輪の聖火ランナーが当町も走ったことから思いついたことなのか、御用邸周辺の整備が遅れている旨の依頼を受けました。彼の最後のプレゼントが本年3月完成、産業振興課が管理する御用邸正面、故岩田L薬局前の記念碑修繕費寄贈です。クラブ会員の知らない活動を体調不良となる直前まで続けてきました。
実現はされませんでしたが、国会議員や宮内庁を巻き込んで時代に合った御用邸新築をする夢を話していたことを思い出します。
本来の私の立場上では、コメントできないことですが、「町予算を要求するより佐藤Lにお願いしたほうが早い」との某職員の生の声も聴いていました。
当初、寄贈に関しては全てライオンズクラブ佐藤として行っていましたが、クラブ認知の拡大と私個人の応援であったと推察されることしばしばであり感謝しています。
追記 ケアー施設生活では滑って転ぶ危険から風呂に入らないとのこと。本年2月21日、三浦ライオンズクラブ合同例会にて城ケ島ホテルの風呂に男性会員に支えられ大勢で入浴したこと、その際の佐藤Lの笑顔が最後の例会となりました。
平成25年9月1日三浦霊園にある小高い丘中腹にある佐藤家の墓に2人の愛妻に挟まれて眠る。
父によく似た佐藤Lの思い出の一部として記載。
更新日:2015年04月20日